私はこの人生に後悔など感じてはいない。
様々な場所に行き、空気に触れ、足を踏み入れ、素晴らしい景色を見た。
また、その数に比例して沢山の人達と出会い、語らい、そして笑ったのである。
はっきりと、胸を張って言える。この世のどんな人間よりも唯一無二の経験を、
誰もが理解する事ができないだろう視点で見据え、この世界で呼吸をしてきたと。
・・・・だが、もし、それでもこの世に後悔はないかと問われたら
私はこう答えよう。
後悔ではなく、「悔い」なら二つも作ってしまった。
一つは私の人生という旅の中で、ついに「神」とだけは会う事が叶わなかった事だ。
一体何が足りなかったのか、いつ終わるか分からないこの人生の中で、
その「答え」だけは分からなかった事が非常に残念だ。
神の歩くであろう道は、目の前に来ていたというのに。
---------------------------------冒険家 ヘンリー・アイゼンバーグ著
「君へ贈る記録」より一部抜粋
**
どこからともなく、果実感を纏った甘い香りが漂っている。その香りに、おはよう、と言われたかの様に
鼻の先を軽く小突かれた気がした。ぼんやりとだが、朝になったと彼女はようやく理解する。
2011年4月22日、キリスト教でいう聖金曜日である今日はエリシャ・アイゼンバーグにとってまた別の意味でも
特別な一日だった。胸まで掛かってた羽毛布団をずらして上半身をベッドから離す。そのまま大きく伸びをし、
一呼吸つくとカーテンを一気に開いた。青空を期待してたのも虚しく、空は一面灰色の雲に覆われていて、
エリシャは興ざめするしかない。唇を尖らせて、眉間に皺を寄せる。
ふと視線を左に移すと、ベッド脇に本棚があり、その上には一枚の写真が入った写真立てが
目に入った。エリシャはさらに顔を歪ませ、溜息を吐く。
「もう、ママってば」
左足をベッドから下ろすとそのまま片足で立ち上がり、本棚上の写真立てを手前に伏せた。写真が見えなくなる。
一仕事終えた、という感じに2度うなずくと、そのまま体重を後ろに預けて、どすん、とベッドに腰を下ろした。
枕元にある丸みを帯びた赤い目覚まし時計を見る。午前9時34分を指していた。
大人ってこんなものなのね、と思うと天井を仰いだ。「何も変わらないじゃない」と蛍光灯を見て呟く。
甘い香りの正体をエリシャは分かっていた。寝起きで多少のふらつきを感じながら階段をつたい
下の階へ降りてゆく。一段、一段、と降りて行く度に、その香りは一層濃くなっていった。
「おはよう、エリシャ。早いのね、今日位ゆっくり寝ていてもいいのよ」
ドアを開けた先のキッチンで、エプロンに身を纏った母・カレンが穏やかな笑顔をこちらに向けた。
両腕の手首〜二の腕位までが白い粉で覆われている。
「おはようママ!こんなに甘いお菓子の匂いがしたら、女の子として寝てられないわ。
ねぇ、今日は何の日でしょう?」
「今日は大事な復活祭の前の聖金曜日ね」
「ええ、そうね!そうだけど、それだけなの?」
「あら、他に何があったかしら」
「ひどい」
欲しい言葉をくれないカレンに、エリシャは頬を膨らませる。その仕草のあまりの幼さにカレンは噴き出した。
「今日で20歳のレディがそんな顔したらいけないわね」カレンはウインクし、口元まで右手を上げると、
人差し指をチッチッと左右に揺らす。ママは意地悪だ、と呟きながらエリシャは顔を洗いに洗面台へ向かった。
エリシャと母親であるカレンは、カナダ・オンタリオ州のあまり栄えてない場所にある住宅街で
豊かな生活とはいえないものの、力を合わせて二人で幸せに暮らしていた。
二人が住む木造二階建ての家の一階は、カレンが経営する洋菓子屋「SAY TRUE」になっている。
今日、4月22日は記念すべきエリシャの20歳の誕生日で、さらに偶然にも今年の聖金曜日と重なっていた。
聖金曜日は、復活祭直前の金曜日を指す。
イエス・キリストが一度処刑で命を落としたにも関わらず3日後に生き返った日、キリストが人々に
「神」と認識された日を「復活祭」と呼び、キリスト教を信じる者たちは、神様の生き返った日、
言い方を変えれば「神が誕生した日」を祝福するのだ。
普段は大学に通いながら、商品の仕込み等カレンの仕事をエリシャは可能な限りで手伝っていたが、
「誕生日だしゆっくりしなさい」と今日はそれを免除されていた。朝から漂っていた甘い香りは、エリシャの
誕生日用の、カレンが準備していたタルトの材料だ。カレンのタルトがエリシャの大好物だった。
「エリシャ、ジョシュ先生が来たから店内に顔を出して頂戴!」
洗った顔をタオルで拭いている時にキッチンから、カレンの声が聞こえたので慌ててカウンターに
向かうと、エリシャに気づいた栗色の髪の中年の男が、片手で被ってた帽子を外し笑いかけた。
「おはよう、エリシャ。調子はどうだい?」
「おはようございます先生。曇ってるのが残念ですが、気分は良いですよ」
エリシャは首を傾げながら窓に目をやる。エリシャの視線に反応し、ジョシュと呼ばれたその男も
後ろを振り返り、窓の向こうに広がる空を眺めた。
「今にも、泣き出しそうな空だ」ジョシュは肩をすくめて、持ってきた自分の傘を指差した。
エリシャの通う大学で、歴史や地理を専門で教える教授であるジョシュは「SAY TRUE」の常連だった。
フランス人であるジョシュにとって、カナダ人のカレンの作るミルクレープは本場のパティシエが作る
それに勝るとも劣らない程に格別らしく、週に1度は仕事終わり等に一切れ買いに来た。
「頼んでた物は出来上がってるかな」
「もちろん、ちょっと待ってもらえますか」
ママ、用意はできてる?とキッチン入り口を覆うカーテンを覗きながらエリシャが尋ねると、白い箱に入った
出来立てのミルクレープを持ってくるカレンの姿が現れた。
「お待たせしました、先生」カレンはミルクレープの入った箱を袋に入れてジョシュに手渡す。
「おはようカレンさん。ありがとう。これが無いと新入生を迎えられない」
いつもは小さい箱に入る大きさの一人分一切れのタルトを買っていくジョシュだが、今日は大学に行く前に
ホールで買った。毎年恒例だった。4月に入ってきた新入生でジョシュの講義を熱心に受ける生徒達に
ティータイムを設けてミルクレープを振舞うのだという。「糖分は脳に必要不可欠だからね」と笑った。
「先生、今日は何の日か知ってますか?」
にっこり、満面の笑みのエリシャにジョシュも満面の笑みで返す。
「聖金曜日だね」
「みんな、そればっかり」
「はは、誕生日だね?20歳おめでとうエリシャ」からかって申し訳ない、とジョシュは少し大げさに拍手しつつ笑う。
つい先程、母親とも同じやりとりをしたエリシャは、やはり頬を膨らませてしまう。隣のカレンが、また
この子は、とでもいいたそうな目で見てくるので、すぐに顔を戻した。
「何かプレゼントを用意しておこう、好きな時間に大学へ来るといい」
左腕の時計を確認すると、思いの外時間が過ぎていたらしい。おっといけない、じゃあ良い一日を、と
顔だけエリシャの方を向きながら、ジョシュは足早に店を出て行った。
カレンは、冷蔵庫にエリシャのお祝いの為に準備したタルト生地をひとまず入れた。タルトは午後にでも
デザートとして出すのでまだ焼かない。そのまま朝食の準備に取り掛かる。「何か手伝う事は?」とエリシャが
言うので「じゃあパンをトースターにセットして、テーブルも拭いて貰おうかな」とカレンも答えた。
ダイニングテーブルの上のトースターに食パンをセットすると、エリシャは濡れ布巾でそのままテーブルを拭く。
じゅうっとキッチンの方で何かを焼いてる音がし、その後に卵と一緒に肉肉しい匂いが漂う。ハムかベーコンだ。
椅子に腰掛けると、エリシャは窓に目を向けた。何度見ても、ジョシュの言うところの「今にも泣き出しそうな空」の
状態は変わる気配が無い。奮発して、朝食のデザートにハーゲンダッツでもあげるから機嫌直してくれないかな、
などと考えてみる。が、当然Mr.Skyは何も反応してくれない。そんなんじゃ女の子にモテないよ!と
エリシャは窓に向かって舌を出した。
目の前に、カレンがグラスを置きミルクを注ぐと、次に、どうやら焼き上がったらしいスクランブルエッグと、
ベーコン、ポテトサラダが盛り付けられた皿を置いた。自分用の皿も置く。
カレンの皿には目玉焼きとベーコン、ポテトサラダが盛られている。エリシャは目玉焼きが苦手だった。
少しして、トースターからパンが飛び出たのでそれをエリシャが皿に乗せ、自分とカレンの前にそっと置いた。
「さ、お祈りをしましょう」カレンも、全ての用意を終えるとエリシャの対面側の椅子に腰掛ける。
カレン、エリシャ共に右手中指を、額、胸、左肩、右肩へと振り十字を切った。
カレンに至っては「神よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意された物を祝福し、
私達の心と身体を支える糧として下さい」と実際に声に出した。
さらに十字を切る時に、「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン」と神に祈りを捧げ、合掌する。
本来、カトリック協会では聖金曜日は断食する事を習慣としているが、今年はカレンの誕生日と被る為、
アイゼンバーグ家では例外という形を取った。
食事をしながら、ふと気づくとエリシャを少し寂しそうな目でカレンが見ていた。「なあに?ママ」
「あなたの20歳の誕生日、パパが生きてたらきっと喜んだろうなって思って」
「そうかな」意識してそっけなくトーストを齧りながらエリシャは言う。「パパが生きてたとして、今日この部屋で
3人揃って朝ごはん食べてるとは思えないけど」パンを歯で齧ったまま、手のひらを見せる様に両腕を肩まで上げた。
エリシャの父親であり、カレンの夫であったヘンリー・アイゼンバーグは冒険家として、世界各国を旅する男だった。
1961年にフランスで生まれたヘンリーは、読書が趣味の勤勉な人間で、将来は学者になるという夢を抱きながら
生きていたが、様々な書物、文献に触れていく内に「もっと大きく広大な世界をこの目で見たい」という気持ちが
大きくなり、夢を現実にする為、25歳で大学をやめ、世界を股にかけるようになる。様々な土地、国を転々とした。
後に、カナダでの旅の途中に出会ったカレンと28歳の時に結婚。翌々年、30歳の時、1991年4月にカレンとの間に
一人の女の子を授かる。それがエリシャである。
冒険家という職業柄、ヘンリーはほとんど自宅にいる事は無かった。初めのうちは最低一ヶ月に一度は家に顔を出し、
娘の成長を確かめに来ていたが、旅がカナダから大きく離れた場所になると、それも叶わなくなっていった。
それ故にエリシャも父親に関しての記憶はかなり曖昧だった。顔もおぼろげにしか覚えてない位だ。
顔を思い出す為のピースは、部屋の本棚の上にある写真立てに入った、まだ赤ん坊だった自分と一緒に
映った若かりし頃のヘンリーとの写真しか無かった。だから、エリシャは殆ど顔を見たことも無く、電話で
何度か話した位しか関わりを持てなかった父親、ヘンリーに良い印象を抱いてはいなかった。
嫌っていたと言う方が正しいかもしれない。
ヘンリーはその後、旅の途中で事故に遭い、1999年に38歳の若さでこの世を去る事になる。エリシャが8歳の時だった。
「あなたがパパを良く思っていない原因はママにもあると思ってるの。ママは、夢に向かって真っ直ぐ進むパパをとても
愛していたし、誇りに思っていたから。旅であった色々な出来事を目をキラキラさせながら私に話してくれるパパを
ママは応援したかった、見守りたかった。でも、冒険家なんて仕事は、私は我慢できても子供の貴女には、ね。
子が父親と会えない事がどれだけ辛かった事か、想像できなかった。そういう人を愛してしまったママにも責任があると、
ずっと思ってたわ。今日みたいなおめでたい日に言う話じゃないかもしれないけど、謝らせて。ごめんね、エリシャ」
「そんな」エリシャはフォークとナイフを、皿に置くと体を前のめりにし、悲しみに嘆くカレンに訴える。「ママは何も
悪くなんか無いわ!今日、この瞬間までずっと一緒にいてくれてるじゃない。毎年誕生日に私の為にタルトを焼いてくれて、
眠る時はキスしてくれて」目頭に熱いものが込み上げて来るのを感じたエリシャは精一杯平静を保とうと努めるが、
声はどんどん震えていく。「人はどんな夢があっても、結婚して守るべき人が出来たり、子供が出来た時点で自分の夢を
一旦捨て家族の為だけに生きていくものだと私は思ってる。人生と言う物語の”主人公”を自ら降りるの。パパはそれを
放棄したんでしょ。パパをこんなに愛してたママを、娘である私を放って、やりたいこと優先して。言えるものなら
本人に言ってあげたいわ!あなたは」
そこまで言うと、エリシャは口をつぐんだ。目の前の母が、さっきの謝罪の時以上に、悲しそうな顔で
俯いているのにやっと気がついたからだ。
そして、黙って椅子から立ち上がる。「ママ」感情に任せて言い過ぎてしまったのかもしれない、とエリシャは思い、
そのままその場から離れるカレンを呼び止めようとするが、ダイニングを出た後数分してカレンはすぐにまた
ダイニングに姿を現した。だが、変化があった。手に何やら少し分厚い紙袋を持っているのが見えた。
「ママ、それは何?」エリシャは重い空気と沈黙に耐えられず、率直な疑問を口にする。
「パパから、20歳の誕生日にあなたに渡してくれと頼まれていたの」
「え」
目の前に差し出された紙袋にはここの住所と、ヘンリーの名前しか書かれておらず、エリシャは訝しげに恐る恐る紙袋を
受け取ると、すでに封が開いてるのを確認して腕を突っ込んだ。手ごたえを感じ中身を出すが、中身もブルーの包装紙で
包まれており、さらにリボンで留めてあった。触り心地から見ると本や冊子のような印象を受ける。心臓の鼓動が
早くなるのをエリシャは感じた。中身を知る事に対し、抵抗と恐れを覚えるが、それ以上に中に何が入ってるのか、
ヘンリーは自分に何を贈ったのか、興味がその恐れを上回った。包装紙を、上品さとは正反対の手つきで破いていく。
中身は、やはり本、だった。ノートだ。表紙には何やら記述がされてるが、普段英語で会話するエリシャもカレンも、
文字を読む事が出来なかった。多分、フランス語だろうなとエリシャは思う。ヘンリーの母国語だったからだ。
簡単に中を確認する。中身も表紙と同じ言語で書かれており、何枚も写真が貼ってあった。様々な景色や人物と
映るヘンリーを確認できたが、それ以上にエリシャは写真に写る、ある事柄に衝撃を受ける。
「ママ、ごめんちょっと外に出てきて良い?」
「ど、どうしたのエリシャ」カレンは、今まで見た事も無いエリシャの必死な表情に不安を露わにする。
「このノートの内容を、私は知らなくちゃいけない気がする」
そう言うと、エリシャは凄い勢いで2階の自分の部屋へ駆け上がった。寝起きであまり纏まっているとは言えない
金髪の髪をゴムで一気にポニーテールに結び、パーカーとジーンズに着替え、バッグにヘンリーからの本を入れると、
帰ってきたらすぐ食べられるようにタルト焼いておいて、とだけカレンに伝え、家のドアを開けた。
そうだ、天気が悪いんだった、と空模様を目にして思い出し、玄関に戻って赤い傘を抜き出す。そしてドアを飛び出し
自転車にまたがった。生暖かい風が、エリシャの体も気持ちも包んでいくようだった。
**
追記を表示