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才能の真偽

16

最近は若者のうつ病や精神的ストレスによる病、いわゆる「現代病」と
呼ばれる症状が流行っているらしい。千年に一度の大不況と呼ばれる時代に、
この大日本帝國の未来を背負う大人は、自分でも気がつかない内に内面から病に
蝕まれているのかもしれない。
 『週刊シャッター』の専属記者である宮下亜紀も、そんな時代の犠牲者として
仕事に毎日を追われていた。朝、外回り前に週刊シャッター編集部にて、上司兼
編集長の瀬呂崎兼仁に訊いた時を思い出す。

「私達が生まれてきた意味って何なんですかね」
「そんなものはない」
ライターが提出した記事の校正をしながら声色一つ変えず瀬呂崎は言い捨てる。
所々に白髪が混じった、耳が隠れる位に伸びた髪を左手で額から掻きあげると、
軽く一息吐き出して、言った。
「中学生みてえな事いきなり言い出したと思えば。宮下お前、今の仕事に不満
感じてるのか。辛いのか。逃げ出したいのか」
図星を突かれて、しかし立場上そんな事を認める訳にもいかない亜紀はそのまま
押し黙った。瀬呂崎は、机から立ち上がり机の上で俯く亜紀の肩を、ぽん、と軽く
叩くと、歌うように、言った。
「ざまぁみろ、若者。お前らは若さという罪に苦しんで毎日足掻いていればいいんだ」
 反射的に顔を上げて瀬呂崎を見る亜紀。
「酷い事言いますね」
 その反応を楽しんでいるのか、くははと口から声を漏らすと宮下を融通の
聞かない
子供をあやすような目で見て話を続けた。
「年寄りは若者が嫌いなんだよ。特に目障りなのは学生どもだな。
あいつら根拠もなく『自分たちには怖いものはない』と思い込んでいやがる。
若いってのはいいよなあ。ある程度の責任から逃げても仕方ない、で
済まされるからな。年取ってみろ、首から「責任」って書いた札を
下げなきゃならねえ。部下のケツを拭く役に徹さなきゃならなくなる。
ま、中にはケツ拭きさえも逃げる花畑野郎もいるがな」
瀬呂崎が自分に何が言いたいのか理解出来なかった亜紀は、少し感情的に声を荒げた。
「じゃあ、なんですか。私が仕事をがむしゃらに突っ走って大失敗しても
編集長がその責任取ってくれるって事ですよね」
 一瞬、舌打ちをした瀬呂崎は亜紀の背中を強く叩いた。ヤバい、言い過ぎた。
ごめんなさい編集長、と謝ろうとした亜紀に発言権を譲らず瀬呂崎は言う。
「やることやらねえで偉そうな事言ってくれるじゃねえか、お嬢さんよ。
尻拭い?当たり前だろ馬鹿野郎が。俺はその為にこの机に座ってるんだぜ」
 上司相手に物を言いすぎた、と亜紀も思った。やってしまったと俯き、行き場の
無い気持ちを誤魔化すように右手で何度も髪をいじってしまう。顔を上げて、
瀬呂崎の姿を視界に入れるのを拒んでしまう。編集部内にはこつんこつんと、
瀬呂崎の靴音が響いてゆき、すぐに体重を預けた椅子の、金属部分が刺激された音が
耳に届いた。
ふぅっと、溜息のような息遣いが聞こえた。
「じゃあ逆に聞くが宮下。お前は人生が何を意味すると思ってるんだ」
 人生と、いきなりのスケールの大きい話を振られ、亜紀はやはり口をつぐんで
しまう。
 ふと、小学生の頃を思い出す。ぴかぴかの、という表現が一番正しいであろう
小学1年生。自分の体では支えられないのではないかという不安さえ感じさせた
赤いランドセルにこれから始まる学校生活に対しての夢や希望を、全て
詰め込んでいたあの時期。
 あの頃の自分の将来の夢はなんだっただろうか。あの頃の夢は、ああ、確かそう、
ケーキ屋だ。お菓子屋でもいいと思っていた。あの、煌めく様な夢や希望、不安の
裏に見えていた新鮮味の溢れた期待感を、今は持っているだろうか。今、常に
抱いてる思いは、何だ。
 過去を思い出し、今の自分の立場を再確認し、一気に落ち込んだ亜紀は、目の端を
じんわりと涙で湿らせた。
そんな亜紀に反し、亜紀の横で、瀬呂崎は噴き出して、言う。
「わかるわけねえだろ。そもそも人生に意味なんてねえんだよ」わはは、と 瀬呂崎は
思い切り笑い出した。煙草を吸い始めたらしく、吐き出した息と一緒に亜紀の周囲を、
あまり好ましくない臭いが、ざらっと覆った。「人間の悪い癖だ。何かにつけて、
物事に意味を見出そうとするのは。そんなのは、こじつけだ。だろ?
神様に聞いてみろ。そんなに深い事考えて、俺らを作り出したつもりはねえって、
首をぶんぶん横に振るだろうよ」
「じゃあ、意味の無い人生を何故私たちは生きていかなきゃならないんですか」
「生まれちまったからだろうが。アダムとイヴ以外の人間は、人の親によって
生み出されたもんなんだ、神様も責任は持ってくれねえんだろうなぁ」
 本当に、夢も希望も無い事をさらっと言いのけるな、この上司は、と亜紀は肩を
がくりと下ろし俯く。自分の足の間から先に床が見えた。俯いた頭のせいで編集部
内の照明が十分に届いておらず床は灰色の冷たい影に覆われている。
最近ワックスがけが行われたばかりだからか、艶のある光沢を持って周囲の物を
映しており、よく見ると灰色の奥深くに薄く自分の顔が反射している。
 そのまま、灰色の沼に飲み込まれていくような気分になった。
「人生ってよ、大事なのは死ぬまでの過程だと思わねえか」
 いきなり、先程瀬呂崎が言った事を補佐するような事を言い出したものだから、
え、と亜紀は声の方を向いた。瀬呂崎は口に煙草をくわえて両手を頭の後ろへ組み、
天井を見上げていた。
「人間は生きてる内に、特に大人になってからそりゃもう色んな事が起きる。
どん底を味わったかと思えば、歩いていく先に更に深い底が見える、なんてのも
ザラだ。その死ぬまでに体験する、色々な出来事をこなしていくのが、
人生ってもんなんじゃねえのか」
「アクシデントをこなす?問題だらけが人生って事ですか?それ生きてて
楽しいんですか」
「何も、起こらねぇ人生ってのが面白いと思うのか」
煙草を灰皿に擦り付け、言うと瀬呂崎は片眉を上げた。亜紀を見て、続ける。
「いいか、宮下。今、お前の人生が気にいらねえなら、それはお前が何とかする
しかねえんだよ。だろ。じゃあ、ひとつ質問だ。世界を変えるのはなんだと思う」
 世界を変える? そんな事、ちっぽけな凡人一人が出来る事ではないではないか。そう亜紀は思った。
「世界を変えるのは、いつだって権力を握った一部の人間ですよ」溜息混じりに、答える。
 あのなあ、本当にお前は何も知らねえのな、と呟き、頭を掻く。瀬呂崎は椅子から
腰を上げ、体の正面に窓を据え、そして手を掛けた。煙草の臭いが、開いた窓数センチの
隙間から逃げ、代わりに冷たく新鮮な空気が室内に飛び込むのを感じた。編集部が
あるのはビルの四階で、窓からもオフィスビルが軒並み並んでいるのが確認できた。
太陽が反射し、ちょうど向かいのビルの窓ガラスから強い光が差し込んだ。
 反射的に亜紀は眉をしかめる。窓から入る太陽の光で照らされ、実際には四十代
後半の瀬呂崎兼仁は、一瞬だが二十代位の、希望を胸に秘めた新入社員のような
顔つきに見えた。
そして歯を見せ、言い放つ。
「世界を変えるのは想像力だよ、宮下」
「想像力」
「ああ、想像力だ。例えばだ。人間はよ、昔は空なんか飛べっこないって思ってた
らしい。なぜかって?てめえの体をよーくみてみろ。翼がねえだろが」亜紀の方を
向きながら、右手親指を立てて背中を指差す。
「でも、飛べた。ライト兄弟って奴らがその無理を可能にしちまったんだ。わかるか?
ライト兄弟だ。飛行機を考えた外人のよ」
「馬鹿にしないで下さい、それぐらい知ってます」瀬呂崎が話し終わる前に亜紀は口を挟んだ。
瀬呂崎はへえ、と相槌を打つと、腕を組んで窓の外に目を向け、続ける。
「ライト兄弟はな、想像したんだよ。人間が空を飛ぶ未来を想像した。周囲の
人間が笑って指を差してくる中、それでも想像するのをやめなかったんだな」窓の
先にある空に、群れで風を切る鳩が見えた。自在に大気を縫う様に空中を舞う鳩は、
人間より格段自由に思えた。「だから世界は変わった。ヒトは鳥になれた」
「珍しいですね、編集長が夢のあるような事を言うなんて」本気で思い、亜紀は
口に出してしまう。
「馬鹿野郎が。夢は諦めなければ叶う、なんて話をしてるわけじゃねえんだよ俺は。
そんな無責任な説教は学校の先生にでも任せときゃいい」
 いくら努力した所で、叶わない夢もある。というより叶わない夢の方が圧倒的に
多い。これを、将来一番大事な時期に、よりによって大人は「無理だ」とは決して
言わないのだ。子供の持つ無駄に壮大な夢を肯定して走らせて、盲目的に夢を追い
現実を忘れたまま年を取った人間は、突き放す。そのタイミングは
大抵、その人間が人生のがけっぷちに立った時、だ。
それが亜紀の思う社会であり、大人だった。
学校の教師でさえもその部分に該当する人間は多いのではないか、と感じていた。
 だから、瀬呂崎の言ってる事は正論のように亜紀は思った。でも、ならば、と
次の瞬間には疑問も、沸いた。
その疑問を口にする前に、やはり瀬呂崎は亜紀に発言権を与える間もなく、言う。
「例えば、すげえ冴えない面の男が居たとするだろ」
「え」
「会社に、そりゃもう美人の新入社員がやってきたんだ。もちろん、自分以外の
男共は色めき立つ訳だ。誰もが、その女を自分のパートナーにしたいと、会社に
居る男はこぞって奪い合い始める。そこにはもちろん、男前で女には
不自由しなさそうな男もいる。
すげえ冴えない男は、もう今まで自分が歩んできた人生経験で、自分が冴えない、
なんてことは自覚していたからその新入社員を良い女だなと憧れの目で見ることは
あっても、高嶺の花として見るだけで特別な意識をしていなかった」
「なるほど」話に関連性を見受けられないながらも亜紀は、とりあえず相槌を打つ。
「そして、冴えない男は数ヵ月後にその美人社員と交際を始めた」
「な」いきなり、脈絡も無く結末を迎えたその話に、亜紀は目を丸くして抗議した。「展開が早すぎます」
 皆まで言うな、とでも言う様な、そうなるよな、とでも言いたそうな顔で腹を
抱えて瀬呂崎は笑う。
「つまりだ。想像力が、冴えない男の世界を変えちまったんだよ。男はよ、不器用
ではあるが優しかったんだ。優しさって言うのは、想像力だろ。相手が、
今どうしたら喜んでくれるだろう。自分がもし相手の立場だったら、何をされたら
助かるか。その想像を男は周囲の男より自然に出来たんだ。マメに相手を気遣う力が
あった。本当に大事なものは、きっと面なんかじゃねえんだろうな」
 想像力が世界を変える。
瀬呂崎が今、目の前で例にした話は確かになんて事ない小さな寓話だが、
子供相手に大人が笑顔で言う「夢への激励」とは違い、現実味が感じられる話だな、
と亜紀は思った。
 何の才能のない自分でさえも、少し考える方向を変えれば目の前の堅く閉ざされた
扉の鍵が
見つかるんじゃないかという気さえ感じられた。想像力が、世界を変える。
変えられるのかも知れない。
しかし、目の前の、普段はからっきし尊敬できない大人である上司の言うことに
言い包められそうな現状に若干の反抗心を感じた亜紀は、素直に受け止められずに
反論してしまう。
「でも、その瀬呂崎さんが言った事も、こじつけに感じなくもないですけどね」亜紀は口を尖らせる。
「お前それは」瀬呂崎は、真っ直ぐ亜紀を指差し、片目を閉じた。「ロマンが足りねえな。夢持てよ若者」
「想像しろ。今、お前がやるべきことはなんなのか。人生は甘くねえんだ。俺たち
大人はよ、毎日問題が起こらない様に、前に進む為に、ある程度の芝居をして
生きてる様なもんだ。本音と建前を使い分ける。それだって、必要なのは
想像力だろ。いいか、もう一度言うぞ。今、お前がやるべきことはなんなのか。
お前の生きる意味は、お前が創造しちまえばいいんだよ。
想像して創造しろ、ってな。今の不満がある世界の中で、その世界を変える為の
想像をしろ」
 ソウゾウしてソウゾウするという言葉の韻踏みが、自分の中でツボに入ったのか、
瀬呂崎は「ソウゾウしてソウゾウ」と何度も呟き、その度噴き出した。
話を聞いて、自分の中のわだかまりが不思議と消えた亜紀は、今までろくでもない
大人の代表として見ていた瀬呂崎を、尊敬出来る大人として少しだけ、見直そう
と思った。
「少し、頑張ってみようって気になってきちゃいました」
 そう言うと、亜紀は机を開け、すぐ手前に入った自分の手帳を手に取った。
今日の予定を確認し始める。
スケジュールの今日の欄には「病院訪問、矢追孝文に会う」と書いてある。市村の
教えてくれた情報によると霧宮光修の担当編集だった矢追は現在、都内の病院に
入院中で、精神科でカウンセリングを受けているらしい。
 その矢追に接触、霧宮のことを何とか聞き出すのが今日の亜紀の、やるべきこと、だ。
「よし。じゃあソウゾウしてソウゾウ初心者のお前に、今やるべきことは何か、
考えてやろうか」
 窓を背にして、瀬呂崎は自分のデスクに両腕をついて前屈みになる。器用に
いやらしく口元を歪めて、言った。
「キャバクラの姉ちゃんになったつもりで、上司に媚売ってみるとかどうだ」
 私の世界に、尊敬出来る大人なんてやっぱり居なかった。
亜紀は、想像して落胆した。

 亜紀がタクシーに乗って移動するのは、実に久しぶりだった。
ホームページ内のマップを参照する限りでは、そこまで分かりづらい所に目的の
場所があるわけではなさそうだったのだが、亜紀は自分でも自分の方向音痴ぶりには
絶大な自信を持っていた為、せっかく出たやる気を損なわない為に、そして仕事を
円滑に進める為に、時間と労力を珍しく金で買ったのだ。
 適当な道路わきに立ち、右手を上げてみる。すると横を通る車道を「空」と
文字が表示された黒い車が速度を落として走って来るのが見えた。上げたその右手に
吸い寄せられるように自分に近づいて、自動でドアを開ける車を見て、少しだけ
誇らしげな気分になった。
仕事の為にタクシーを使うなんて、自分も大人になったものだ、と小鼻を広げる。
 タクシーに乗り込むと、運転席に居る運転手が「どちらへ行きましょう」と尋ね
てきたので、目的地を告げて、亜紀は窓越しに流れる景色を眺めた。
 東京、新宿を走る無数の車は、その一台一台が大きな目的を抱えているような
重々しさと、それに矛盾して縦横無尽に広がる迷路のような道路を、迷う事無く
進むスマートさを兼ね備えていた。
 同じ位の速度で走っているにも関わらず、自分の乗るタクシーを次々追い抜いて
いくように亜紀は錯覚する。一刻の時間の無駄も許さないといった面持ちの東京と
いう街で、憶する事無く車を運転する人々を、亜紀は違う世界の生き物として
いつも傍から眺めている気分だった。窓の外を残像を残しながら流れていく車を、
何も考えずにぼうっと見ていると、人生というのは東京の道路みたいだなと、
思いを巡らせる。
道路を走る車の、さらに後ろには違う車が、また次も他の車が続いており、決して
後退はさせてくれない。
 前へ進むしかないという雰囲気と事実が運転手を急かすのだ。
物は言い様なのだろうな、と亜紀は考える。前へ進むしかない、のではなく前へ
進めば良いと考えを変えていけば、その先には有意義な何かが自分を待ち構えて
いるかもしれない。
想像して創造するのだ。想像力で世界は変わる。
 左手にチェーン店のファミリーレストランが現れた。マップの目印として、
事前に看板を確認していた亜紀は、景色を眺めるのをやめ、運転手の前のフロント
ガラスに目をやる。目的地らしい大きな灰色の建物が見えた。
 信号を大きく左折すると、タクシーは駐車場の方へ進む。駐車場の入り口は
遠目から見ても分かる程明らかに他の車の出入りで混んでいた為、タクシープール
付近で亜紀は車から降ろしてもらった。
 新宿の中でもひときわ大きい、東京医療大学病院に亜紀は着いた。
この大学病院の中の精神科に亜紀は用があった。「週刊文衆」の市村に、
霧宮光修の元担当だった矢追孝文がこの病院に入院している、と聞いたのだった。
 亜紀の右腕にあるアナログの腕時計は、午前11時に差し掛かる頃を指していた。

 そんな時間にも関わらず、病院内のロビーは無数の人間の行き交いで忙しなかった。
病院という場所柄か、余計な声は少ないように感じる。つんとした、あの病院の
持つ独特の匂いがその場所に存在する人々を理由もなく緊張させているのだろう。
受付に並ぶ人、黄色い紙袋を抱え足早に歩いていく看護師、人と付き添ってエレベーター
から出てくる車椅子の老人など、人が密集し、それぞれの目的の為に動いている。
 カウンターに目をやった。人が大人数並んでいるのが見えるので、自力で精神科を
探す事を亜紀は決心する。
 案内板を見つけて、その前に立った。どうやら目的の精神科は、このロビーから
少し離れた場所にあるらしい。案内板から振り返った先に見える、長い廊下に
向かって亜紀は歩き出した。
 精神科との連絡通路とでも言うような廊下には、公衆電話やら飲料の自動販売機が
一定の距離ごとに設置されている。その向かい、亜紀から見て左は、窓があった。
外はこの病院の中とはうって変わって、車の移動で騒々しそうだった。
 進んでいくと目先、2メートルほどの所に非常口らしき扉が見える。このまま、
進むと精神科には着かないと察し、手前のT字路を右折した。
 すると、右奥に見える飲料の自動販売機の影から、顔が半分こちらを向いてはみ
出しているのを見て亜紀は小さな声を上げ、その場で凍りついた。動きを止める。
「おねえちゃん、見ない顔」
自販機の横から覗くその顔は、亜紀の腰よりやや低い位置にあった。どうやら
この病院の、患者の子供らしいと判断し、少し亜紀は警戒心を和らげた。
恐る恐る声を掛ける。
「ぼく、そんな所で何してるの?」
相手の目線に近づけるべく、少し前屈みになる。
「びょういんのみまわり。怖い人とか悪い人がいたら、こまるから」
 なるほど、警備員ごっこみたいなものかと亜紀は思い、それならばと笑顔を
作って話を続ける。
「ねぇ、警備員さん。聞きたい事があるんだけど」
この病院の精神科ってこの先にあるのかな、と聞こうとした矢先、自販機の陰に
隠れた人物の頭は自販機を離れ、亜紀の目の前に現れた。亜紀の視線はその人物の
動きに合わせて激しく、天を見上げる事となる。
 目の前に現れたその男は、子供というにはあまりに背丈のある人間、つまり
れっきとした大人だったからだ。
亜紀は言葉を失った。自販機の後ろに隠れてたのは子供では無く、腰を下ろした
大人の男だったのだ。
「無理、です!本官は、ここを見回るという仕事があるのです」
 そう叫んだ男は、指を揃えた右手を額に当てて敬礼の真似事をすると、お辞儀を
して亜紀が歩いてきた方向へと左右に揺れながら歩いていった。
「びっくりしたー。お、大人だった。しかも警備員じゃなくて警官ごっこだったんだ」
 言動を見る限り、内面が上手に成長できなかった大人だろうか。多分、彼も
精神科の患者の一人だろう。
 亜紀は、いきなり鼓動の勢いを増した胸を撫で下ろすと、安堵のため息を吐いた。
ああいった患者を多く、抱える病棟はとても大変だろうな、とその先の「取材」の
大変さも想像し、気分が一層重くなる。
 気分を入れ替えよう、と亜紀は思った。
想像力が世界を変える。よし、やってみよう、と気合を入れてこのまま足を進めた。
先にあるはずの「精神科」の受付を目指し一歩を踏み出すと、その行動を一旦
牽制するかの様に、鞄の中にある携帯電話が震え始める。
せっかく入れた気合を削ぐように、着信を知らせる携帯を、忌々しさからか、
ゆっくり取り出して確認した。
画面に表示された着信相手の名前は、編集長の瀬呂崎だ。眉根を寄せる。
「もしもし、お疲れ様です」
「お、宮下!お疲れ」
「今、病院の中で、これから取材始める所なんですけど」タイミングの悪さに、
苛立ちの隠せない亜紀は早口で電話の向こうの上司に捲くし立てる。邪魔な電話を
してこないでよ、と続けたい位だった。
「そうか、でもいいぞ行かなくて」
「え」亜紀は驚きと、虚無感のあまり右手の携帯電話を床に落としそうになる。
必死で体勢を立て直し、仕事を続けるな、という上司にその真意を確認する。「どういうことですか」
「あのな、簡単に言えば、優先順位が変わったんだ。お前はこれからすぐ埼玉に行け」
 埼玉、現在は11時30分を過ぎた所で電車なら鈍行で行っても余裕な時間では
あったが、それにしても突然の方針変更の指示にやはり納得が出来なかった。
取材のために作ったこの時間をどうしてくれるのだ。
タクシーまで乗って時間を有効に使ったからこその、今があるのに。
「何で、埼玉なんですか」
「松本かのん大先生の取材だよ」
 松本かのん。映画化された恋愛小説「いとつなぎ」の作者であり、松本かのんも
また精神を病み闘病生活を送っている人間の一人だ。霧宮光修の担当だった矢追孝文の
抱えていた新人作家であり、霧宮光修自殺に多少でも関わりを持つのではないかと
推測された人物だった。松本かのんの実家は埼玉にある。
矢追孝文とは違って、彼女は自宅療養を続けているらしい。確かに、いずれ取材は
予定されてはいたのだが。瀬呂崎は、続けた。
「あっちも精神やられちまってるしな。今までアポは何度も取ってたがなかなか
取材の許可貰えずにいたろ。たった今だよ、今日なら取材に応じる、と先生の
親から許しを貰えた。だから、そっちは後回しだ。悪いが、埼玉に向かってくれや」
 亜紀は、いきなりの上司の指示に憤りを感じてはいたが、松本かのんは
女性作家であったし、同じ女性としての、作家に対する興味はあったので、意外にも
すんなりと気持ちを切り替える事ができた。
 精神科で入院しているという、矢追に取材する事への不安があったのも否め
なかった。さっきの患者といい、一筋縄ではいかなそうに思えたのだ。
松本も精神を病んでるという点は同じだが、そこは女性同士、なんとかなるだろう、
と根拠のない自信が、亜紀を後押しした。じゃあ頼むわ、と電話を切ろうとする
瀬呂崎を、ちょっと良いですか、と亜紀はさえぎった。
「何だよ」まだ、何かあるのかよと面倒そうに瀬呂崎は応じる。
「朝の、美人と付き合えた冴えない男の話ですけど」
 想像力で世界を変えた、あの偉大な冴えない男の話の続きを亜紀は想像した。
「もしかして、その冴えない男こそが瀬呂崎さんだったりするんじゃないですか」
 少しの間が空いた。どうなのよ、私の新説はどうなのよと携帯電話を持つ腕に少し力が入る。
「お前、失礼じゃねえか」はぁ?と甲高い声を上げ、瀬呂崎は反論した。「俺は冴えないかよ?」
「外見だけで言えば、悪くないとは思いますが」
 と言いよどむ亜紀に、だろ、と答える瀬呂崎。声色が少し弾んでいる。確かに、
外見こそ猫背気味ではあるが瀬呂崎自体の容姿は、顔や体に無駄な脂肪が無い
40代後半、歳相応な渋さを持った紳士にも見えなくない。
しかし、あ、自分で言っちゃうんだ?と、亜紀は口の端を歪めた。
「残念ながら俺の話じゃねえよ。俺の女房は腹が出てるしよ」
「でも、そこに気づけたなら美人の奥さんだって貰えそうじゃないですか」
 その外見に若さが加わるなら、尚更ではないか、とは言わなかった。
「そうかもなあ」受話器から聞こえる瀬呂崎の声が、心なしか遠くに感じる。「まぁ、あれだよな」
「なんですか」
「結婚しちまった後に、気づいても遅いっつうこったよ、若者」
瀬呂崎は、言うほどに若者を嫌っているとは思えない軽快さで、いやぁ、若い奴は
憎いよな本当にな、と笑いながら現状を嘆いた。
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プロフィール

JUNE

Author:JUNE
JUNE(ジューン、ジュン)
旧PN:十文字貴人
男 4月25日生まれ
血液型:A
好きな事:映画鑑賞、読書、落書き、英語勉強
人間は「人生」においては誰もが素人。だから、焦らず楽しもう!

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